さくら
まだ高校生だった私には
なんとなく遠い話のように聞こえた。
先生が語り出したのは今まさに私がその入試に向き合わんとしている、「日本の大学」の事情だ。
海外の大学は9月が入学時期であり新しい学年のはじまりである。
(終わりはというと、UBCは4月の末で学年の区切りを迎え、その後長い休みに入る。)
それに対し、日本においては卒業は3月、入学は周知のとおり、4月。
この入学時期のズレが海外との人材交流の阻害になるという、当時特にこぞって取り上げられた議論だ。
ではなぜ4月入学にこだわるのか。
先生は続ける。
「桜」の時期に合わせた入学、へのこだわり、
という説があるらしいのだ。
それを語ったとき、先生は少し呆れを含んだ笑みをみせていた。
・・・・・
そして晴れて大学生となった私。
下宿先の桜は
見事、の一言である。
市のメイン通りは桜色一色になる。
この「線」の桜も素晴らしいが、私は「輪」が一層好きだ。
駅前のロータリーを囲うように
咲き乱れる桜のハクレイ。
私にはそれを眺める特等席がある。
・・・・・
留学から帰るのは5月のはじめ。
今年は桜、見れないのだな、と改めて落胆していた矢先。
まだ2月も始めである、
バンクーバーで桜を見つけた。
バンクーバーには様々な種類の桜が根付き、
それぞれが異なる開花のタイミングをもつので
比較的長い期間にわたり堪能できる、らしい。
少しバスに揺られれば、並木であれ一本木であれ
桜に出会うことは難しいことではない。
なんとも郷愁を誘う街だ。
・・・・・
ところがどうして。
各地の桜を眺めてみても
なんだかスッと入ってこない。
ぬるい潮水を浴びたような、澄み切らない感情がしたたる。
異国の地における桜、という不調和からか。
いやこの解釈は桜を日本のものとして独占しすぎている。
はたまたその優しい暖色が2月という暦に不釣合いだからか。
今年のバンクーバーはスキーリゾートの雪をも溶かす暖冬だった。
綺麗、美しい、
そういった気持ちが湧かないわけではない。
でも何かが足りない。
苺を除けたショートケーキのような。
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その特等席では
逆説的だが
じっと落ちついて桜を眺められる、のはむしろ稀だ。
ブースから生徒がでてくる。
春風が、散った花びらの群れを再び空に舞い上がらせる様を見送り
私はアドバイザーの職務のために席を立つ。
春期講習真っ只中。
あの頃はまだ、「受験生」の萌芽を認めるにはあまりにあどけない彼らだった。
昨日「卒業パーティ」が開催された。
あの春から1年。
私が去った後も一層、立派に「受験生」をやりきった彼ら。
思い入れ深い生徒たちがまた、塾を旅立っていった。
彼らの門出を、遠くからではあるが、心から祝したい。
桜にはまだ少し早い、3月中旬の旅立ちだ。
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そして今日、
改めてバスからさくらを認めた。
なるほど、足りなかったものはこれだ。
出会いと別れを想起させる、
珍しい類の花である。
一見あい反する事象を一挙に引き受けるのに、この花は相応しい。
あたかもそれが表裏一体であることを体現するように。
これらの、人の心をしくりと騒がせるライフイベントを経てこそ、桜はさくらたるのかもしれない。
そして。
塾に限らず、
私自身の学年も、卒業を迎えようとしている。
同時に、新たな生活のはじまりを控えている。
さくらは、そういった出会いと別れに静かに寄り添っている。
今年、私がバンクーバーでみることのできる桜には
出会いと別れが伴わない。
私が感じられる別れは、facebookの中だけだろう。
自身の大学の卒業式が迫り、恐々としている私だ。
しかし、自身にも、日本でのそれから1か月遅れて
別れが確実に迫っていることを
すでに散りはじめた花びらが思い出させる。
あと1か月半。旅立ちを前にやり残したことはないだろうか。
・・・・・
9月入学の採用は急務だと、
呆れ笑顔の先生は強く訴えていた。
人材流動性の確保には不可欠な策だ。
それでも。
この時期に入学を据え置かんとする意思も
理屈ぬきにうなずけてしまったのが今の私だ。
出会いと別れを彩る花として
さくらはあり続けるだろうし、あり続けてほしい。
それを伴ってこそ、
日本人にとってのさくらが
ほかにはない美しさを見せるのだろう。
太平洋の向こうでの昨日の旅立ちが
バンクーバーのさくらにも、私だけに見える色を重ねた。
卒業おめでとう!