日本にいると気づきにくい「親日」という前提
少し前になるが、わが大学がAERA mook の大学特集にて紹介されたことがあった。
知名度の面で、決して「誰もが知ってる」大学ではない我々の大学としては
こういう大衆向けの宣伝の機会は大変貴重であり、
大学通りの駅前の書店を中心に(笑)発売当時はそれなりに盛り上がった記憶がある。
ここで私がなんでこのちょい昔の話題を掘り返したか。
大学のカラーにそぐわない阿呆なピースかました私が掲載されているから、では断じてない。
大学の寮が「国際寮」として紹介されていたのを思い出したのだ。
人材の行き来は今の時代非常に盛ん。
特に大学という場はそれが顕著で、海外からの留学生を見かけることも決して珍しいことではない。
私の大学は交換留学の枠が広い。
その良さは我々のような学生が国を飛び出す機会提供のみならず、
当たり前だがわが大学にも海外からの学生の流入を図ることができる点も挙げられる。「交換」、なので。
彼らとの交流の糸口として大々的に取り上げられていたのがその寮、だった。
実情と照らし合わせて見ても、これは間違いないだろう。
そして大学に限らずとも、今や日本にいても外国出身の方と関わりをもつのは決して難しいことではなくなっている。
ともすれば、日本にいてもこういう海外出身の方々との関わりの機会はごろごろ転がっているのだから、別に国を出ずとも…みたいな論も展開される勢いである。
しかし、忘れがちな前提。
日本において我々が関わることのできる人間は、みんな基本「親日」なのである。
種々の理由があるにしろ、日本に興味があったから、というのが、彼らが日本に渡航した根底にある意識に違いはない。
だからこそ彼らは概して我々にオープンである。
しかし、こちらから留学というかたちで他国を訪れると、当然そうもいかない。
そもそも我々の国に対してほとんど興味をもたない、ひいては関わりを持とうとしないタイプの人間がいる。
社交の場においてもあからさまに会話を膨らめてくれない人もいる。
そして、そういう彼らとの関わりを強いられる場面がある。
授業で自発でない流れでグループが形成されるとき、なんだよアジア人みたいな態度を向けられることもある。
それが
私の英語がつたないからなのか、単純に私という人間に全く関心がないのか、それともアジアンだからって見下されているのか
それはつまるところ分からない。
そんな中で自身に興味を持ってくれる友人、話せて楽になれてができる友人、
こういった人との出会いは一層プレシャスなものに感じる。
日本にいると忘れがちな「みんな親日」の前提。
それがくつがえり「無条件に嫌われる(嫌われる、といったら鋭すぎるかもしれないが)」鮮烈な経験は、
もしかしたらいわゆる「グローバル人材」としての日本人が抱くありふれた感覚に挙げられる、かもしれない。
そして、認めてもらう(この時点で下手にでている)ためには、やはり実力を養わねばいけないのだな、という奮いの源にもなるし、
私個人にとってみれば
誰からも好かれようという陳腐な意思から哀しい努力もしていた自身の行動指針に
大きな変革をもたらした。
やはり、海外での経験のインパクトはそれなりに大きい。