スケッチ!UBC

よーべーせー留学記  ~UBC、バンクーバー、えとせとら~

人種を感じるとき

改めて読み返した『地球の歩き方 カナダ』に以下のようなフレーズを見つけた。


☆理想世界の縮図☆
カナダには実に200種類以上の人種が暮らし、人口の1/4が国外で生まれた移民一世となっている。また、カナダは1971年に世界初の「多文化主義政策」を取り入れた国。お互いの国の習慣や文化を尊重しながら暮らしている様子は、まさに理想的な世界のあり方だ!


異人種によって形成された地域、その暮らし。
これはバンクーバーでの暮らしにおいて常日頃から感じることができるし、
留学生、海外からの学生を積極的に受け入れるUBCにおいても一層
その錯綜を感じることはできる。

 

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こちらに来て早々に見つけたこの看板が

すべてを物語っているといってよいだろう。

 

 


しかし、バンクーバー暮らしを経て、
この「あげつらいまくっている」表現になんとなくの違和感を覚えた。

 


最初に、私が(よくも悪くも、あるいは中立的にも)人種を感じた局面を少し紹介すると…


① 服の買い物したとき


ダウンタウンで服を買っているとき。

 

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その店は2階建てで、1階はレディース、2階がメンズだった。
良さげな服を見つけ試着を申し出たところ。2階には試着室がないそうで、1階に降りて使ってください、1階スタッフに伝えとくから、とのこと。
はいはいーって階段を下りてる途中、対応してくれたスタッフが無線的なもので1階スタッフと話している声が聞こえた。

 

「アジア人が下におりてるから試着対応してー」

 

おぉ。なるほど。僕はメガネのあんちゃんでも黒いコートのあんちゃんでも
やや髪の毛ぼさぼさのあんちゃんでもなく、
「アジア人」と認識されるんだな、と。

スタッフはきっと何の気もなく言ったのだろうし
それに悪意とかは全く感じなかったのだが、
ここでは「人種」が人となりを表す筆頭として使われる、その感覚は非常に新鮮だった。

 

② Pit night の写真を眺めたとき

 

UBCにはPit Pubなるパブが大学内にある。
そしてこのパブは毎週水曜日はPit nightと称して少々盛り上がる。

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で、その盛り上がりをパパラッチが一眼レフでおさめ、FBページにあげる。
卓で飲んでる人の写真、踊っている人の写真をランダムにばちばちーっと撮ってはあげるのだ。

友達行ってたりしないかなーっと思って何の気もなくそれらの40枚くらいの写真を眺めていたところ…

これは私の主観偏見がはいるかも分からないが、


なんとなく「欧米系」の人の写真が多い気がする。


アジア人なんかほっとんど写っていなかった(なお決して0ではない)。


ではこのパブにはアジア人がそもそもいないのかというと、そんなことはない。

同じような現象はPit pubに限らず他のイベントごとでも
なんとなくみられるような気がする。
偏見が入っているかもしれないとは繰り返すが…。


③ Skytrainに乗っているとき

 

友人のバースデーということで
Richmondというバンクーバーの南地域に向かったときのこと。

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ある箇所からいつのまにやら乗客の顔ぶれはアジア人ばかりに。

 

乗車も降車も。

 

Richmond自体がアジア人中心の地域なのだが、Skytrainの客の変化は目を見張るものがあった。
Richmondとは別だがChina townという箇所もあるように、結局のところ
アジア人の集積する地域、というのがばっちり存在しているのである。


と、それっぽく言ってみたもののこれは日本でも見られる、横浜の中華街しかり新大久保の韓国人街しかり。


しかし、こんななんの変哲のない事実も、多人種国家においては一層際立つ。

 

④ 留学生でグループ行動したとき

 

Christmas Marketにみんなで行ったときのこと。

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会場はなかなか小さくてかつ混雑していて、しかも我々結構大所帯。
一回2グループに分かれようということになったとき、適当にばさっと切ったら
「たまたま」僕のグループは見事にアジア人、反対のグループは見事に白人、に分かれてしまった。
そしたら1人が、

「みろ!これが自然状態だ!」的なことを言い出した。


ちなみに彼はしばしばこういった人種に絡んだ冗談?をさらっと口にする。オーストラリア出身というのも手伝っているのかもしれない。
最終的に、「俺たちのような交換留学生は人種の壁を越えるために在るんだ」的なことも付け加えてはいたが。(ちなみにこの後うちのグループにドイツの友人が加わった笑)
やっぱり根っこの部分でこの意識はあるんだなーって。

 

 

 

 

とまぁ。バンクーバーにいて「人種」を感じる局面は枚挙にいとまがない。

 

 


さて、最初の地球の歩き方の表現に戻ろう。

 

多文化共生というと、なんとなく
すべての人種が手を取り合って、、みたいなほんわかしたイメージを浮かべがち(少なくとも僕はそうだった)だが、残念ながらそういうほんわかしたものとは別の局面も多々存在。

どちらかというと、尊重というか「不干渉」というのがより的を射た表現だと思われるのである。


そういえば、留学前に先輩がこんなことをこぼしていた。

 

「結局、アジア人はアジア人でかたまるから」

 

国際色豊かという印象だったUBCにおいてそんなことって、という風に
聞いた当初は違和感を覚えたこのセリフ。
しかしこっちで暮らしてみるとそれが容易に実感できた。

街に出れば空間的な分断はたやすく観察できるし、
目を凝らせば授業を受ける際も
人種ごとに座る場所がなんとなくわかれていたり。
グループワークのグループ編成も
学生の自発に任せれば明らかに人種別になっていた。

 

 

 

 


僕がこっちの暮らしで導き出した結論は、

 


人種国籍ごとの「分断」。

残念ながらこれは確かに存在する。

 


しかし乱暴に解釈しないでほしい。
これはざっとの俯瞰=一般化の末の結論であり、個に焦点を当てれば
そんなくだらない分断を平気でひょいっと越える人間も山ほどいる。
特に交換留学生なんかはこういう異なるバックグラウンド同士の関わりに価値を見出す人間は多い。
そして、そういった横断が大いに許容される、奨励される世界になっているのは間違いない。

 


グローバル化グローバル化言われて久しいが、非常に空虚な言葉で実態がつかみにくい。
その中身をまたひとつ詰めることができたのかもしれない。


ヒトモノカネの移動は容易になったものの、「心持の面での100%ボーダーレス」は達成されることはないだろう。
そういう意味で、「グローバル化」は100%ボーダーレスな生易しい世界を意味した言葉ではない。

 

しかしそれを越えようとする人間もいること、それが許容・奨励される時代、環境が整っていること、これが「グローバル化」の実体の一要素なのだろう。

 

 

 

 

UBCは多国籍大学だ。

日本人も例外なく多数。

だからこそ、日本人というだけで珍しがられる、みたいなことは全くない。

ちなみに

University of Billions of Chinese

という揶揄も存在するぐらい中国人も多い。笑

 

 

 

世界の縮図という言葉がふさわしい大学であり、それに起因する上記のような学びも得られる点がひとつの特徴である。

 

 

 

良くも、悪くも。

 

 

 

「日本人」の件について、改めてまとめることにする。